2015年7月30日木曜日

コンセプチュアルな関係を内発的に築くということ

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹より
 
ただ僕は思うのだが、本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。まわりの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。僕の人生にとってもっとも重要な人間関係(リレーションシップ)とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。僕が生活の基盤を安定させ、執筆に集中できる環境を作り、少しでも質の高い作品を生み出していくことを、多くの読者はきっと歓迎してくれるに違いない。それこそが小説家としての僕にとっての責務であり、最優先事項ではないか。そういう考え方は今でも変わっていない。読者の顔は直接見えないし、それはある意味コンセプチュアルな人間関係である。しかし僕は一貫して、そのような目には見えない「観念的な」関係を、自分にとってもっとも意味あるものと定めて人生を送ってきた。
「みんなにいい顔はできない」、平ったく言えばそういうことになる。
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村上さんの言葉の中でも特にこの一節は、私にとって最も有意義な気づきと確信に繋がっています。

「社会くんとフェアな対話をしよう。」

「自己と世界はパートナーだ。」

私はよくそんな言い回しを好んで使います。それはつまり、不特定多数の人物に向けて頭と心をパカっと開き、派手にすっ転ぶ恐怖を感じるくらい、全体重を載せてコミュニケーション&アートして、自分主導でコンセプチュアルな関係を築けたら素敵な人生になりそうだよ、ということです。
健全に自立している人たちは皆、これを自然とやれている。
もっといえば、自立していない人たちは皆、他人主導のコンセプチュアルな関係にしがみついている。
もう一度書いておきます。

『僕の人生にとってもっとも重要な人間関係(リレーションシップ)とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。』

以上、「コンセプチュアルな関係を内発的に築く」という視点でした。

雨のち晴レルヤ。

NHK朝ドラの『ごちそうさん』は面白かった。
ちょくちょく妻と一緒に見てました。 

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ごちそうさん最終回が幸せで良かったです。「あれで源ちゃんと一緒になったら私の半年間を返せだよ。悠太郎さんが帰ってきて良かったぁ」と、妻の力んだ感想が面白かったです(笑) 

西門家に嫁いだ主人公のめ以子は、周囲の人の心を開かせ、ときには踏み込んで、皆の関係性が幸せに変わるきっかけを自然に導いていたように見えます。

 め以子は、置かれた状況を人一倍に受け入れようと努力します。しかし、誰かを思いやる心に信念があるときは、自分を偽らずに示し、人の心に対峙します。小姑である和枝さんとの関係や出来事は、め以子という人物の意味を最も描いていたのだと思います。

人を信じて、自分に正直であること。不安や不信や怖れによって、周囲が愛を見失っている肝心なとき、独りになる勇気を持って自分の想いを表現し、人間関係に向き合うこと。西門家の人々の心を再生させたのは、そんなめ以子の心の強さです。

(2014年3月29日 twitter投稿 @chigirakoji

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何があっても そばにいるよ
君と待っていたい 昇る朝日を
涙の河も 海へと帰る
誰の心も 雨のち晴レルヤ
雨のち晴レルヤ

2015年7月29日水曜日

『歩く花』が好き。愛する人の心に情熱の花を。

知ってるかい 忘れてはいけないことが
何億年も昔 星になった
どんな時代の どんな場所でも おんなじように見えるように

覚えたり 教えられたり
勉強したりするんじゃなくて
ある日突然 ピンときて だんだんわかることがある

ガードレールを飛び越えて センターラインを渡る風
その時 その瞬間 僕は一人で決めたんだ 僕は一人で決めたんだ

今日からは歩く花 根っこが消えて足が生えて
野に咲かず 山に咲かず 愛する人の庭に咲く


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ある日突然ピンときて「気づいてしまった花」は、ガードレールという枠を飛び出して道路に出ます。そこで感じた爽快な風。そのときその花は、自分が自由であることを誇らしく喜んだ。怖れを超えて、これでいいんだと独り決断した。この歌詞は、そんな精神的自立を表現しているように思います。

歩く花にとって、道路のセンターラインはPoint of no return。帰還不能点のような心理的境界線。生き様が本当に試されるのは、ガードレールという安全の柵を派手に飛び越えること(アウトローになること)ではなくて、誰にも共感されえない自分の世界にとってだけの未知の領域を、自分の真実への羅針盤だけで、たった一人で渡りきること。とんでもなく孤独です。それでも今、死んでもいいから、誰の理解も関心も得られなくていいから、正直な自分を生きたいと願う。「僕は一人で決めたんだ」という繰り返しに、そんな心境が浮かんできます。

根っこは花にとって、自分を生かしてくれる環境と同化するための連結機能です。これまでの立場に根を生やせば、養分と水分を受け取って生存できる。しかしこの花は、根っこが消えてしまった。足が生えて、よそへと歩いた。つまり同化していた環境への依存も執着もなくなったということです。

花が本当に咲き誇れるのは、与えられた場所(物語)ではありません。自分が純粋に心から愛する人の庭においてだけです。根っこが消えて、足が生えて、ガードレールを飛び越えて、独り歩いていけばこそ、愛する人の心に巡りあって、自分の真が実る。唯一無二の、情熱の花が咲く。

野に咲くでも、山に咲くでもない。
愛する人の心に咲こう。


甲本ヒロトさんの歌詞っていいですね。

2015年7月28日火曜日

生死との向き合い方を問う一冊。

「平穏死」のすすめ(石飛幸三)を読みました。

介護職員初任者研修を受講していたとき、看取りに取り組む特養で働いている講師の方からおすすめの本としてお借りしました。著者である石飛幸三さんは長年続けた血管外科医を引退して、世田谷にある特養・芦花ホームの常勤配置医として働き始めましたが、胃ろうをはじめ延命ありきの医療・介護の在り方によって、死への準備がはじまっている体に不自然な負荷と苦痛を与えてしまうことに根深い問題を感じます。彼は職員と利用者の家族の心に寄り添いながら、関係者の本当の願いと怖れに向き合う対話を重ねていく。そして医師としての経験と具体的な看取りのケースを挙げながら、終末期のケアのあり方を問いかけています。

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「医療技術は日進月歩で発展していますが、しょせんまだまだ不完全な技術です。このような不完全技術を駆使して、神ならぬ人間が未知の領域において、人間の運命を左右しかねない作業に挑戦しているのです。 そこにある医者・患者間の関係は、与える側と受ける側という一方的な関係ではなく、不完全な技術であるという医療の本質を認識し、お互いの信頼と納得の上に、ともに患者の事態を解決する協力関係であるべきです。そのためには、社会的なシステムや制度も必要ですが、最も大切なのは個人の自覚ではないでしょうか。」

「私は思います。言うなれば医療と医学は違う。私は医学部の入学試験を、たまたま数学が一問余計に解けてパスできました。医学部の授業を聞いてこれは未熟な科学だと思いました。不遜にも治せる医師になりたいと思って外科医になりました。当時の先端医療であった血管外科の応用を目指しました。もっぱら科学的側面の追求に専念してきました。自分自身歳を重ね、ましてや特養で働いてみて、老衰の終末期において我々がしなければならない医療とは何かを見せつけられました。自分では先端医療に邁進していると思ってやってきましたが、我々が提供している医療はあくまで患者さんの人生にとっては対症療法でしかないのだということを改めて認識した次第です。樹を見て森を見なかったのです。医療は進歩すればするほど、死に臨む人間に対してそれがどう関わるべきか、難問に突き当たります。胃ろうの問題の本質もこの辺にあるのではないでしょうか。
老衰のために体の限界が来て、徐々に食が細くなって、ついに眠って静かに最後を迎えようとしているのを、どうして揺り起して、無理矢理食べなさいと口を開けさせることができましょうか。現場を知っている者からみると考えられないことです。もう寿命が来たのです。静かに眠らせてあげましょう。これが自然というものです。これが平穏死です。」

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石飛さんは大変覚悟ある方で、語る言葉は落ち着いていて力強いです。 購入して妻とも内容をシェアしましたし、今働いている老健でも勧めました。 人間の生死との向き合い方を問う一冊です。

社会のパートナーとして

社会のパートナーとして教育事業を始めます。

大切にしたいこと。

素直な願いを込める。
オープンな自己表現である。
分かち合う対話である。
プレゼントである。
心地よい余白がある。

自然なコミュニケーションがたくさん出来たらいいな。
それが最高の学び方だと思うんだ。

よろしく。